2012年9月1日土曜日

1年



お店をオープンさせてから1年が経った。

節目。

いつだってそうなのだけれど1年前に想像していた1年後の自分とはまったく異なる姿で私は今在るのであって、本当にたしかなのは今だけなのだと心底思うのだ。

今、私の周りにいるあの人もあの人もこの場所で出会った人だったり繋げてくれた人だったり。
1年前に彼らの顔を知らなかったことが不思議。

生きてゆくために逃げることや休むことは必要でその場所や方法はそれぞれだろうけれどこの場が、誰かのその一役を担えているなら。

この場に立ち寄ってくださった方々、案じてくださっている方々に感謝感謝。



あきらめるということは嫌なことを受け入れるということ。

私は強がって生きる。

会いたい人なんてそんなにいないけれど、お月さまの下に会いたい人がいるから私は生きていられる。生きていようと思える。








鈍感にだけはなりたくないから敏感でいるのだけれどそれでいて元気で前向きでいることはひどく疲れるし難しい。そんなパワーを全身から発しているような人にはどこか恐怖心すら感じる。
急速なスピードで歳を重ねてしまったような気がする。

人生には速度がある。
ひとつの速度だからこそ苦しくて悔しくて嫉妬して生きる。
冗談だと笑い飛ばしながら。





2012年7月21日土曜日

背の高い君に頭をくしゃくしゃと撫でられるのが好きなのだ。







髪を切ったら更新するブログみたいになってきたな。
反省はしてません。
写真、撮ってないわけじゃないんだけどもっと撮りたくてでも生きていくための作業やなんやかんやで忘れて、髪を切るとおぉ撮らなきゃってカシャカシャやるみたいな。


ザクザク切ってやった。
それなりに髪が生えそろって以来、人生で一番短髪。
男の子みたい。
濡れた髪の毛をバサバサっとタオルで拭いたら上半身裸のままジャジャっと炒飯でも作りたくなるのだが、お風呂上がりに鏡に映る素朴すぎるすっぴんの頭部と体のアンバランスさに笑う。


美容院から帰ってきたら金髪にすればよかったなと思ったけれど、翌日、テレビでヘルタースケルターの舞台挨拶を見てあの人と丸かぶりするとこだったと気付き早まらなくてよかった。


ショートのアレンジはメイク込みでなかなか楽し。




















私が自分の顔の何が好きかってメイクでかなりの変化をつけられることだ。
変身願望の強い私の特技はコスプレ。







あっ、そうだ。

って思い出したかのように言うことではないのでしょうが、更新していない間に結婚しました。
正確には前回更新した時にはすでに入籍していたのだけれど。








とりわけエレカシとイエモンはすさんだ深夜の私を優しく撫でてきた。
この曲はクソ恥ずかしいタイトルなのだが、彼を重ねてしまう。
彼を産めなかったことに嫉妬し、彼に殺されることを切望する。
彼の指に太陽を、私の指に月を。約束のリング。


結婚願望がまったくなかったわけじゃないのだけれど、冗談みたいでリアリティがまるでなかった、いやしかし、そういえば私の人生は冗談そのもの、そう、これはこれですとんと抗うことなく静かに受け入れた。たぶんそういうことなのだと思う。なるようになるものはなるようになるようにできているのだと思う。







帰りたい場所があるというのはいいものです。





彼が拾った猫。
私も彼に拾われた。
家族ができた。

私はたしかに守られていて、守りたいものがあって、守らなければいけない世界を少し悲しく思うのだ。

たしかなのは君の体温。生きている音。







2012年5月6日日曜日

ぐるぐる廻るセカイの中で君と出会った。




変わってゆく変わってゆく。


今まで私は乱暴な、狂気じみた速度の中で生きてきた。
当人当時にはそのように感じていなくても。
ただ振り落とされないようにまた自ら堕ちてゆかぬように必死で掴んでいたときも。
それは何も遠い昔のことでもなく、あの頃はこどもだったね、などと笑えるほどのことでもなく。
自分の人生なのだから好きなように生きたらいいのよ、って言われて育ってきたはずなのに。


そして今、恐ろしいスピードで変化してゆく私や私の周りのそれやこれや。
その変化よりも、それに焦ったり慄くことなく、あまりに、すとん、と、受け入れられている自身に驚く。
顔つきまで変わってきた気がする。
変化は痛みや不安や恐怖を伴うものだけれど、それも含めて概ね楽しめている自分自身がまた変化したのだと思う。
なるべくして、というのはこういうことなのかもしれない。


誰だって、一度に持てる、抱えられる荷物の大きさは限られている。
何度も何度も捨てて捨てて捨てられてきた私だけれど、特に狂気じみた速度の中で生きているのだから、その大きさは非常に少量であることにようやく気付く。
たいていのことがどうでもいいことに思えてしまうのはそういうことなのかと。
限られたどうでもよくないことに私は命投げ打つのだから。
命を大切にと学校では教えられたけれど、命を燃やして生きろと祖父に教わった。
医師だった祖父は自らの脈をとりながら逝った。


この変化の中で私は今、とてもシンプルだ。
失いたくない場所がある。時間がある。
そういうものはいつだって容赦のないスピードで失い失われてきた。
失いたくないものを持つということはその恐怖を抱えるということだ。
ただ、そういうものがあることは私の生命力になる。
原作も映画も好きだけど、うん、『ヒミズ』でも言ってた。
守り守られ生きてゆくのだ。
それはつまり、この世にはそこから守りたい守らなければいけない何かがあるということ。


これからも社会と契約して生きてゆくのだろうから悶えることもあるさ、きっとある。
そんなとき、私はモノクロのセカイで舌を出してやる。




 

2012年3月16日金曜日

髪を伸ばすのはもうやめた。






髪を伸ばすのはもうやめた。
今年は切ろうと思う。ざくざく切ろうと思う。そんな気分。
もうふたつ先のスタイルまで決めた。ぼんやり決意。

後ろ髪の長さはそのまま。
こっそりアシンメトリー。
頭が軽い。
しゃしゃっと首を振ったら短い毛がはらはらと落ちた。


本当は何にだってなれるし、どこにだって行ける。
捨てられないだけ。怯えてるだけ。
誰かのたいしたことじゃないことに私は締めつけられたり縛られたりしている。
越えられない壁はある。壁づたいに歩くことをもう知っている。


心を平たくする方法だって知っている。
瞳から光をなくす。
そしてこっそり自分を破壊する。
飛び散った破片は掃いて捨てたっていいし集めて灯を灯す燃料にしたっていい。


溶け込んだかのように演じてもけして馴れ合わない慣れ合わない。
この違和感はなくならないし、なくなったときは自身を疑うべきだ。


どうでもいいことに煩わされることはどうしたってあるけれど私は今日もどうでもよくないことに全力でぶつかる。出し惜しみしない愛情をここに。

2012年3月13日火曜日

丸くなって眠る私が作るドーナツの穴に猫は潜り込んだ。











3月は出会いと別れの季節やっていう春のなかでも別れの期分な感じ。

ずっと長かった髪を生まれて初めてショートカットにして出た待ち焦がれていた卒業式とか。
新横浜から名古屋まで汗のような涙が止まらなかった新幹線とか。

なんかそんなんがほわーっと頭に浮かぶ。
まだまだストーブもコートもしまえへんし雪なんかもちらつく日々の合間のミルクティーのようなあたたかい陽射し。
嬉しくて兎柄のぺらんぺらんのワンピース着たわ。
その日の夜には寄席に行った。
生落語初体験。舞台は銭湯で。銭湯初体験。
めちゃめちゃ笑ってしもた。
そもそもゲラやし、どうも突拍子もないとこで笑いがちのようやし、でもそんなん憚らんでよかったし、うわ、なんやこれ、おもろい気持ちいい。空間がもうね、よかった。ただ足はめちゃめちゃ痺れた。
常々思うことやけれど、食べれてたらな、笑えれてたらな、なんとかなるねん。
体と心は繋がっているようで、なんやかんやで如実に表れてきていたこの体のそこここで、これはなかなか弱っているなと思うていたのだけれど、あの人やこの人やあれやこれやで私は勝手に生命力にしているから。
無理矢理でもなんでも今日も口角を上げる上がる。









太陽アレルギーやけど陽だまりは好き。
私が心底愛した男の人たちはみぃんなひなたのにおいがした。

2012年3月2日金曜日

ひな祭り前夜に徒然なるままに。




生きてきた年数、年齢という数字、に囚われることは好きじゃないけれど、意識はしてしまうもので、なんとなくこの年齢で死ぬ、という漠然とした未来を越えて生きてしまっている現実、相次ぐ現在、現在、現在、止まらぬ余生感に生温かいため息。それでも私はぬめぬめと生き、たしかに在る青白かったりオレンジだったりする灯を煽ぐ。抱きしめたい、と思い、抱きしめられるものは抱きしめ、抱きしめられぬものはせめてと吸い込んだり、ほぉっと「幸せだ」とつぶやいてみたりする。


私はまだ母親という役割を担ったことがなく、自分に母性本能というものが著しく欠落しているのではないかと思うほどにそれを望んだこともない。
ほしいとかほしくないとかそういうものではないと思うのだよ、懐妊する、それを含め母親という役割を担うということは。なんとなくなんとなくだけれど。


ひな祭りという日。
母と呼ばれたことのない私は、私の母という存在の娘という役割をうまく担えてこなかったことに苦しくなる。事実は、記憶は、消えないし消すつもりもないからそれはこれからも。
ひとりの人間が、女が、社会と契約して生きてゆくにはさまざまな役割を演ずることが必要とされ、私はめいっぱい八方美人に生きてきたし、これからもそうするだろうと思うのだけれど、どこかの誰かが喜ぶ時、どこかの誰かは泣くことはどうしようもないことなのかと途方に暮れる。でもそういうものなのだろうと。だからこそ幾度も幾度も選択を繰り返し生きてゆくのものなのだろうと。



お店にはお雛様がいっぱい。





母のお雛さま。
何十年ぶりかに日の目を見ました。




伊賀くみひものお雛様。




鮮やか。

あたしに視力がある限り、いや視力がなくなってもかもしれない、なくなったことがないけれど目を瞑ったことはある、体力、気分、欲望の満たされ具合、昨日見た映画、今流れている音楽その他あらゆるもので形成された日々変化するあたしのフィルターを通してこのセカイを眺める。見つめる。

それだけじゃつまらないから、あたし、そういうところは貪欲だから、あなたが見ているセカイ、頭の中で考えているそれこれを体現できたらと思うのよ。利用してくれればと思うのよ。

誰かの衝動になれることはすごくすごく幸福なことだと思うのよ。









2012年2月3日金曜日

2センチメートルの憂鬱を切り落とす。





何もかもがうまくいかない朝がある。
基本的に朝は憂欝だがもうそれの極致とでもいうような朝。
基本的に朝は憂欝だがそれでもなんだか胸がとくとくと波打つような、フレンチトーストでも焼いてしまおうかというような愛すべき朝もあるのだけれども。
昨日の朝は前者だった。


何もかもがうまくいかないということは、もともとおっちょこちょいだというのにさらに手元が覚束なくなり忘れっぽくなる。
一寸前の記憶すらきつねにつままれたように失う。
感情もコントロールできない。
この間も、手相を見る方に驚かれたばかりだが異常に長い感情線を持ち合わせているせいか否かもともと影響を受けやすいのだが、この出来事をこの映像をこの言葉を受けてのこの感情とわかっているときはいいのだ。
なんだかわからないけれど涙が出てくる、呼吸が荒れる、そういうときがこれで厄介なのだ。
あぁ今日は憂欝の極致にある調子のよくない朝なのだと受け入れるしかない。

そういうものは自分で受け入れてどうにかするしかなくて、誰かにどうこうしてもらうものじゃない。
「どうしたの」と聞かれて懸命につたなくて不器用な言葉をかき集めてこのここにあるこれを口にしようと思うのだけれど、大概その努力は実らない。
抱き締めて体温を共有することはとても心地よいけれど情けなく、その胸板をぽかぽか殴ったり爪を立てたりする。
あなたはここに責任を持ってしまうのかい。
飼い慣らすとはそういうことで、あたしはそれを覚えてしまうよ。
そんなの困る、そんなのごめんだというなら行って。振り返ることなく行って。

そういえば美容院を予約していたので、ごめんなさい、少し遅刻してしまったわ、出掛ける。
先行き未定の髪の毛をとりあえず毛先から2センチメートルのところに鋏を入れてもらう。
胸の下まであったものをバッサリといく数年に1回のあの儀式に較べれば爽快感は低めだがそれでもなんだか気持ちいい。
もし私がとかげなら何度もしっぽを切ってしまいそうだ。

同じ所ばかりで分けているとハゲるのではないかと不安でかなり久しぶりに分け目を変えた。
数か月放ったらかしだった色はワントーンあげた。
丸くなったシルエットにいくらか和む。


憂欝とともに切り落とされた2センチメートルの髪の毛。


まぁそれくらいじゃ昨日は快復されなくて、馴染んだ道で迷子になったり、毎週買っている生クリームを買い忘れたり、生卵を落としたり、あらゆる箇所を火傷したり、した。

ただ私はもうわかってる。
そういう日もあると割り切ることを。
「割り切れないもの割り切って生きてるんだ」って9個のたこ焼きを私にひとつ多めにくれたいつかのおっちゃん。


コミュニケーションに言葉というツールを使わないこいつは私の目からこぼれた塩辛い水を舐めた。





2012年1月3日火曜日

こんにちは2012年。





いやはやなんだか年末いんぐりもんぐりしてたら新しい年が来ていて迎えるなんてもんじゃなくえっ?来ちゃった?来ちゃったじゃねーよ、ちょっちょっちょっとにかく掃除してねーし、待って5分だけ待っててみたいな感じで2012年が来ちゃいました。「来ちゃった」が効果的な場合もありますが大惨事になることもあるので基本的にアポをとられることをお勧めします。

ちなみにこれ、おばあちゃん作。
私の身内は手先が器用な人が多いのですがどうしてその血が私に流れなかったのでしょう。
えぇそういうことですね。迂闊に戸籍謄本見たりするのはよそうと思います。



元旦からはりきって営業していたのですがやめればよかった。
まったくもって正月気分がみなぎってこないので形から入ろうと着物を着ました。





あたし。





母。
母は着物がよく似合うのでうらやましいです。




お仕事中は割烹着着てたの。
割烹着着たのははじめてですが、なんだか美味しい煮物が作れるような気がしてきて作ってません。



何年ぶりかに行った初詣でおみくじをひきました。
結果は大吉!
「龍が天へと昇る如く」みたいななんだかいいことが書いてありました。
「辛抱が肝心」みたいなことも書いてありましたが、辛抱は快楽へのプロローグであることが往々にしてあるので私は結構辛抱することが好きです。

転居もよいみたいなので、周期的にそろそろ転居期なのでしてやろうと思います。



今年は辰年。


お店にも置かせて頂いてます。




 
器をたくさんつかわせていただいているいちょう窯の南出学さんの作品です。
伊賀焼の辰。



 
OPEN当時からお世話になってる方の作品。
伊賀の組みひもで作られた「昇り龍」です。
これはお正月限定鏡餅バージョン。






愛嬌がある顔ですよね。
私ももうそっち系でいこうと思いますよ。てへ。








そんなこんなで2012年、泣いたり笑ったり抱き締めたり抱き締められたりいんぐりもんぐりしたいと思います。

はっぴーにゅーいやー。