数年前、親友と占いに行った。
何を根拠に見てもらったのかはもう忘れたが、そのときの占い師に「あなたは芸能リポーターになるといい」と言われた。
考えたこともない職業だったので驚き、理由を聞いたら「あなたにはなんでも話しちゃうから。話せないことも話しちゃうから。あなたは根掘り葉掘り聞くつもりなんてなくても、話されちゃうのよ。」と言われた。だからスクープを聞きだすことができるということだ。
そのときは「へぇ」と思っていたけれど、なるほどたしかに私は聞いてもいないことをカミングアウトされることが多い。
特別親しくなくても(もう二度と会わないと思っているからこそ話せる話というものもあるが)、そんな秘密、私なんかに話してくれてありがとうとむしろ感謝したくなるような話を聞かせてくれたりする。
「愚痴受け付けます。」という看板でも首から提げようかと思うほど、私はさまざまな人から毎日と言っていいほど愚痴られている。
直接、電話、メール、ツールはいろいろだが、愚痴を聞かない日はない。
そんな日々がまた戻ってきた。
それを受け付けられるほどの余裕を持たない日々を私は脱したのだと思う。
負の感情はどこにいくのだろう。
どこかで食い止めないとどこまでもどこまでも伝達されていってしまう気がする。
私は愚痴り下手だ。
弱音を吐くこと、人に相談することがヘタクソだ。
すべて笑い話にして話せるようになるまでその話はしない。
渦中にいるときはひとりになってしまう。
音信不通になって心配をかけてしまったことは何度あったことだろうか。
もうそれを理解してくれてそっとしておいてくれる友人たちには感謝している。
最近やっと「お願い事」はできるようになったが。
だからもう、私は負の感情の最後の受け口にいっそなりたいと思うのだ。
的確なアドバイスなどできない。
私はどれだけあがいても私ひとりの人生しか生きることができない。
人の人生を生きられないということに嫉妬すら感じる。
だからせめて、その人のその人生のそこに立って考えてみる、ということをしたいと思う。
そういうことが好きなのだ。別に私は優しくなんかないし、どちらかというと冷酷だ。
私がふんふんと聞いているだけで、みるみる相手が元気になってくる。
それを見るのが好きなのだ。こんな私でも役に立ったのかと思えるから。
別に私じゃなくてもよかったのかもしれない。そうだとしてもかまわない。
そんなことたいしたことじゃない。
あっ、いいのよ、喜びの報告をしてくれても。
だけど、たしかに私は弱っている人の話を聞くことの方が性に合っているかもしれない。