お店が開店して早2週間。
こっそりオープンしたわけですが、台風が見事に上陸したり、臨時休業しなければいけない状況(何人かの方がお店の前まで来てくれたみたいで・・・申し訳ありませんでした・・・)になったり順風満帆とはいきませんでした。
しかし、最初からうまくいきすぎるとむしろ怖くなってしまう、幸福に怯える性質の私にはこれくらいがちょうどよかったような気がします。
オープンに際し、たくさんお祝いをいただきました。ありがとうございます。
ほんの一部ですけど・・・
ほんと、お店が花だらけになって嬉しい悲鳴!!
祖父が生前、ここで医師をしていたのですがその患者さんたちも訪ねてくれて、祖父の思い出話をしてくれ、顔の形や色白さがおじいちゃんによぉ似てるねと微笑んでくれたり、この建物が好きだったのだけどこんなふうに変わったのね、ここはあの当時のままね、素敵ね、とおっしゃっていただけたり、皆様に愛されていた祖父、病院だったことをとても強く実感しました。
だから私は、この場が愛される場であることを引き継がなくては、と思うのです。
難題ですが、私自身がこの場を自分で思っていた以上に愛していることに気づき始め、この場で生み出す生まれるさまざまな出来事を楽しみにしているのです。
どうぞ皆様、ひょんなことから始めた新参者の不束者ですがよろしくお願いします。
私にとってうれしい出来事。
親友の結婚披露パーティーに行ってきました。
半年以上前、彼女の一万日記念日に入籍していたふたりですが、調子に乗った、いえ、青い空と海をバックに純白のドレスで飛び跳ねるアロハーな挙式をふたりっきりでハワイで済ませ、山奥にあるブタを愛でながらウインナーを食べるあのファームにみんなを集めてパーティー。
中秋の名月に向かう夜空。
月の綺麗な夜に見た花嫁は、今まで見た花嫁で一番美しく、一番おめでとうを言いたい花嫁でした。
4歳からまいまいコンビと(彼女もまいなのです)まとめて呼ばれるほどいつも一緒にいた私たちだから、そんな彼女と恋愛の話をするだけでもどこか照れくさいのに、「結婚おめでとう」なんて言うのはますます気恥ずかしくて「結婚するねん」って聞いた時も私はなんか茶化したりおどけたりばかりしていた気がします。
だけど、彼女が好きな人と一緒にいるのを見るのは、彼がはじめてで、ふたりが一緒にいるのを見るのが私はとても好きで、そのふたりが一緒に生きていくことを決めたことが私はとてもうれしい。
自分の視線を受け止めてくれていた人がいなくなる哀しみを私たちは知っていて、希望がキボウになって、それでも彼女は彼に出会い、一緒にいられる奇跡。
その奇跡を心から祝福することができている私。
この世は捨てたもんじゃないと思えたりするのです。ありがとう。
シャイなふたりだけれど真摯だから、きっと口にする言葉、その2本の腕の使い方は愛のためでしょう。
ふたりが一緒に生きていく、それが絶対に世間一般の契りである必要はないのでしょう。
ただ、今、この日本で社会と契約して生きていくためには「結婚」という方法が有利であり便利です。
命を繋ぐことを考えるのならそれはもう圧倒的でしょう。
それがまた、彼女の夢でもあったのだから私は純粋にうれしく思うのです。
彼女が、彼女の好きな人が、ふたりを祝福する人たちが、愛や幸せを感じられることがたくさんありますように。
私はふたりの新居のすぐ近くで、彼にはコーヒーを、彼女にはりんごジュースを用意して待っています。