2013年3月15日金曜日

母親になりました。

ご無沙汰しております。
更新しないにもほどがありますね。

そろそろいい加減にしておこうと思います。


前回、更新した写真に写る私はすでに母体となっており、更新していない間に出産などというなかなか壮絶な体験をしておりました。







もともとが頑丈に出来ていて、そのうえそこそこ運がよいので、今まで身体あらゆる場所に感じた痛みにそれほど激しいものはなく、今まで生きてこれました。
そんな私に降り掛かった一番の痛みであったことは間違いないはず。

出産前日の朝、「ややや・・・これは」という、今思えば吹けば飛ぶほどのわずかな違和感のような痛みが腰にあり、何ゆえ、初体験なので怯え、とりあえずの荷物をまとめ、旦那と受診。

「今日か明日か明後日には生まれると思うけどどうする?入院する?してもいいし帰ってもいいよ」なんて言われ、へぇはぁまぁそんなもんなんですか、ほな帰りますーととりあえず病院をあとに。

いつ、いわゆる「鼻から西瓜」と俗に言う痛みが我が身に降りかかるのかと少し緊張しながらも、いつ来るかわからぬ「その時」に備えて休みをとってくれた旦那と買い物に行ったり掃除したり焼肉食べたり『アウトレイジ』観たりしていました。

「ねぇまだなの?大丈夫なの?」と聞いてくる旦那になんだかおさまってきちゃってすんません・・・と思いながらその日はそのまま就寝。


翌日早朝、お腹から腰、太股にかけてのめりめりとした重みのある痛みに目が覚める。
数分のインターバルを挟むことから、ああああこれですね、これですね、陣痛ってやつですね、ついについにと思いながらも前日フライングしているだけに、また早まったら恥ずかしいわと目覚まし時計を睨みながら間隔を計る。
陣痛が数日に及ぶということも聞いたことがあるので、これに長時間付き合わせることになるやもと、旦那の体力温存のためにギリギリまで寝かせておくことを決意し、呻き声を抑える。
2時間後、いかん、これ以上間隔が狭まると動ける時間がなくなると思い、隣で眠りこけている旦那を起こして病院に電話。

着替える、倒れる、着替える、倒れる、荷物まとめる、倒れる、荷物まとめる、倒れる、車へ。


即、入院。
その時、8時半。
嘔吐するほどの痛みというものは初めてだとふらつきながらも、その瞬間、誰もいなくてよかったと思うほどの自尊心と恥じらいは持ち合わせている程度。
私が痛がる箇所をさすってくれる旦那や、何やら細々と用事してくれる母や妹の存在はたしかに覚えているし、はじめてすっぴんを晒して、一瞬、病室を間違えてしまったかしらという顔をした義母の顔もはっきり覚えている。

こう、なんか、すさまじい雄叫びをあげられる方もいらっしゃるようですが、痛みの耐え方というのは人それぞれなんだと。
私はとてもそんな大きな声をあげられる余裕がなかったですよ、腹筋に力をこめることなど出来なかった。
頭は冴えわたり、聴覚がすこんと研ぎ澄まされる。
呼吸に意識。このあたりはヨガやっててよかったって思いますよ。
誰が何を言うてるのか、私は今どこに力をこめねばならぬのか、そういうのすごい冷静。
何より旦那の冷静さたるや。客観性の高さよ。
そう言えば私はまだ、彼が撮った出産ドキュメンタリーを見ていない。
なんだか助産師さんにびっくりされるようなところも撮っていたような気が。

さてさて、2012年11月22日12時40分に52cm3232gの娘誕生。




妊娠を知った時。
あたたかい春の日。
静かなほわっとした歓びがゆったりとからだに染みわたっていった。
ああ、私にもこんなセンサーがあったのだなと思った。
子どもは欲して得るものではないと私はどこかで思っていてこうなったことがすごく当然のことのように受け止められた。

それでも、あまりに速いスピードで変化していく体に心がついていけず、怖かった。
自分の意志や生活習慣とは関係なく変わってゆく体。
思春期の時に味わったあの後ろめたさ。
急速に成長していく胸へ注がれる視線。
トイレで「あ‥」と思わず呟いた自分が女になっていく薄気味悪さ。
そういうものにすごく似ていた。

自分の体を受け止めるというのは私にはなかなか困難なことであって、受け止めてくれる人がいるから受け止められているようなそんな不安定な状態だったのです。
そういう場所があることを知って私がどれだけ救われたか、誰に何と言われようとも。

しかし、そんなこと知るかと言わんばかりに突き出していく腹。
私は赤ん坊を容れるためのただの容器。
なにも考えるな。なにも感じるな。
そういうのは無駄無駄無駄。お前はただの容器。







塞ぎ込みがちになる妊娠中の心の有様。
産む、その時まで自分に母性というものがあるのか不安で仕方なかった。
しかし、嗚呼、私にもありました。
すごいな。本能ってすごいな。

そして、生まれたら即、乳首を咥えさせられる赤子よ。
もう何度もそうしていたかのように吸うことを知っている赤子。
すごいな。本能ってすごいな。




こんな愛おしいものが入っていたなんて。
そんなふうに思えたならこの出っ張ったお腹ももう少し愛しめただろうに。





すさまじい生命力を持ち合わせめきめき成長してゆく娘っ子。






母親になるともっといろいろあきらめられるのだと思っていた。
もう夢など見たくない。何も望みたくない。
今在るものに満足できる個体になりたい、なれるんじゃないかと期待していた。


ところが、生命力の塊である娘を見ていると、むしろそういうものがマグマのように轟々と音を立てながら腹の中で蠢くのだ。
誰にも悟られぬようその自分でも辟易してしまうほどのパワーを持つそいつらをなだめすかしている。


「恋愛から救うのは理性よりも多忙だ」と芥川龍之介も言っていますが、多忙というのは恋愛だけでなく、あらゆることを忘れさせてくれる。
一日の「やらなければいけないこと」をこなすことだけでいっぱいいっぱいの我が身にはそのことに危機感を感じつつもそのことに甘えているのです。


「今が一番幸せなときよ」なんて悪気のない満面の笑みで言われたりすると、ぎゅうっと心臓を掴まれたように苦しくなる私は相当性格が悪いのだと思います。
幸せはなるものではなく、感じるものだと思っている私にそもそもそんな概念はないんだよと心の中で吐き捨てる私は相当意地が悪いのだと思います。
私はとても欲深い人間だからいつだって渇いていていつだって寂しい。
どこで誰と何をしているかに関わらず、醜い私は求め続けてしまうのでしょう。
もう何もいらない、と思う「幸せ」は同時に「今、殺してくれたらいいのに」ととても狡いことを考えさせる。
それはつまり、この飢餓感に私は生かされているということなのでしょう。
夢や理想や願望、そういう類のものがすべてなくなれば、あきらめることができたなら、もう死にたいと思うこともなくただただ耽々と生きてゆくことができるのでしょう。





生きようとするのは本能で、自殺する生き物は人間だけなのだと。
夢や理想や願望を抱く人間だけなのだと。
本能のままに赤ん坊が乳首にむしゃぶりつく様は受動態でこの世に放り出されたのになんたると、こちらが圧倒される。

生きている、ということにいつしか私たちは馴れてしまう。
それは死ぬことなんかよりずっとずっと怖いこと。


欲深い私は、この子に恥じぬように生きたいなどと思うようになったのです。
祖父は「自分に恥じぬように生きろ」って言ってたけど、それは私にとって同じこと。
私もそうだったように、彼女も生きてゆくことに失望するやも。
その時に、でも大人になったらなんだか楽しそうじゃないか、くそぅと彼女の最も近き存在の大人である私がまず思わせてやれればと思うようになったのです。
つまらなそうな顔をして生きているくせに「生きてれば何かいいことあるから死んじゃダメよ」なんて無責任なことを私は言えない。そんな大人になりたくない。それは私自身が一番嫌なタイプの人間だもの。

なんでこんなに哀しいことばかりなのにどうして生きていかなければいけないのかって思うけれど、それでも私はあなたのパパに出会い、そしてあなたに出会えたわ。
いつだって、人生は私に終わらせてはくれないの。
素晴らしいタイミングで素晴らしい人に出会ってしまうの。
そして出会いは好奇心に。そしてエネルギーに。
仕方ないわ、生きてくしか。最悪でも死ぬだけのことだもの。







生後100日を過ぎ、ますます成長していくあなた。
パパと同じ顔のあなたにたくさん笑わせてもらったわ。
身に余る幸福に怯えてしまう。
それでも、ねぇ、思っているよりずっと人生は短いわ。
好きなことをやりなさい。本当に、本気で、やりなさい。
私だって、あなたのことばかり構っていられないくらい生きるわ。生きなきゃ恥ずかしいもの。

大丈夫。あなたは愛されているわ。本当よ。
こんな気持ち、教えてくれてありがとう。
大好きよ。パパの次にね♪






























2012年9月1日土曜日

1年



お店をオープンさせてから1年が経った。

節目。

いつだってそうなのだけれど1年前に想像していた1年後の自分とはまったく異なる姿で私は今在るのであって、本当にたしかなのは今だけなのだと心底思うのだ。

今、私の周りにいるあの人もあの人もこの場所で出会った人だったり繋げてくれた人だったり。
1年前に彼らの顔を知らなかったことが不思議。

生きてゆくために逃げることや休むことは必要でその場所や方法はそれぞれだろうけれどこの場が、誰かのその一役を担えているなら。

この場に立ち寄ってくださった方々、案じてくださっている方々に感謝感謝。



あきらめるということは嫌なことを受け入れるということ。

私は強がって生きる。

会いたい人なんてそんなにいないけれど、お月さまの下に会いたい人がいるから私は生きていられる。生きていようと思える。








鈍感にだけはなりたくないから敏感でいるのだけれどそれでいて元気で前向きでいることはひどく疲れるし難しい。そんなパワーを全身から発しているような人にはどこか恐怖心すら感じる。
急速なスピードで歳を重ねてしまったような気がする。

人生には速度がある。
ひとつの速度だからこそ苦しくて悔しくて嫉妬して生きる。
冗談だと笑い飛ばしながら。





2012年7月21日土曜日

背の高い君に頭をくしゃくしゃと撫でられるのが好きなのだ。







髪を切ったら更新するブログみたいになってきたな。
反省はしてません。
写真、撮ってないわけじゃないんだけどもっと撮りたくてでも生きていくための作業やなんやかんやで忘れて、髪を切るとおぉ撮らなきゃってカシャカシャやるみたいな。


ザクザク切ってやった。
それなりに髪が生えそろって以来、人生で一番短髪。
男の子みたい。
濡れた髪の毛をバサバサっとタオルで拭いたら上半身裸のままジャジャっと炒飯でも作りたくなるのだが、お風呂上がりに鏡に映る素朴すぎるすっぴんの頭部と体のアンバランスさに笑う。


美容院から帰ってきたら金髪にすればよかったなと思ったけれど、翌日、テレビでヘルタースケルターの舞台挨拶を見てあの人と丸かぶりするとこだったと気付き早まらなくてよかった。


ショートのアレンジはメイク込みでなかなか楽し。




















私が自分の顔の何が好きかってメイクでかなりの変化をつけられることだ。
変身願望の強い私の特技はコスプレ。







あっ、そうだ。

って思い出したかのように言うことではないのでしょうが、更新していない間に結婚しました。
正確には前回更新した時にはすでに入籍していたのだけれど。








とりわけエレカシとイエモンはすさんだ深夜の私を優しく撫でてきた。
この曲はクソ恥ずかしいタイトルなのだが、彼を重ねてしまう。
彼を産めなかったことに嫉妬し、彼に殺されることを切望する。
彼の指に太陽を、私の指に月を。約束のリング。


結婚願望がまったくなかったわけじゃないのだけれど、冗談みたいでリアリティがまるでなかった、いやしかし、そういえば私の人生は冗談そのもの、そう、これはこれですとんと抗うことなく静かに受け入れた。たぶんそういうことなのだと思う。なるようになるものはなるようになるようにできているのだと思う。







帰りたい場所があるというのはいいものです。





彼が拾った猫。
私も彼に拾われた。
家族ができた。

私はたしかに守られていて、守りたいものがあって、守らなければいけない世界を少し悲しく思うのだ。

たしかなのは君の体温。生きている音。







2012年5月6日日曜日

ぐるぐる廻るセカイの中で君と出会った。




変わってゆく変わってゆく。


今まで私は乱暴な、狂気じみた速度の中で生きてきた。
当人当時にはそのように感じていなくても。
ただ振り落とされないようにまた自ら堕ちてゆかぬように必死で掴んでいたときも。
それは何も遠い昔のことでもなく、あの頃はこどもだったね、などと笑えるほどのことでもなく。
自分の人生なのだから好きなように生きたらいいのよ、って言われて育ってきたはずなのに。


そして今、恐ろしいスピードで変化してゆく私や私の周りのそれやこれや。
その変化よりも、それに焦ったり慄くことなく、あまりに、すとん、と、受け入れられている自身に驚く。
顔つきまで変わってきた気がする。
変化は痛みや不安や恐怖を伴うものだけれど、それも含めて概ね楽しめている自分自身がまた変化したのだと思う。
なるべくして、というのはこういうことなのかもしれない。


誰だって、一度に持てる、抱えられる荷物の大きさは限られている。
何度も何度も捨てて捨てて捨てられてきた私だけれど、特に狂気じみた速度の中で生きているのだから、その大きさは非常に少量であることにようやく気付く。
たいていのことがどうでもいいことに思えてしまうのはそういうことなのかと。
限られたどうでもよくないことに私は命投げ打つのだから。
命を大切にと学校では教えられたけれど、命を燃やして生きろと祖父に教わった。
医師だった祖父は自らの脈をとりながら逝った。


この変化の中で私は今、とてもシンプルだ。
失いたくない場所がある。時間がある。
そういうものはいつだって容赦のないスピードで失い失われてきた。
失いたくないものを持つということはその恐怖を抱えるということだ。
ただ、そういうものがあることは私の生命力になる。
原作も映画も好きだけど、うん、『ヒミズ』でも言ってた。
守り守られ生きてゆくのだ。
それはつまり、この世にはそこから守りたい守らなければいけない何かがあるということ。


これからも社会と契約して生きてゆくのだろうから悶えることもあるさ、きっとある。
そんなとき、私はモノクロのセカイで舌を出してやる。




 

2012年3月16日金曜日

髪を伸ばすのはもうやめた。






髪を伸ばすのはもうやめた。
今年は切ろうと思う。ざくざく切ろうと思う。そんな気分。
もうふたつ先のスタイルまで決めた。ぼんやり決意。

後ろ髪の長さはそのまま。
こっそりアシンメトリー。
頭が軽い。
しゃしゃっと首を振ったら短い毛がはらはらと落ちた。


本当は何にだってなれるし、どこにだって行ける。
捨てられないだけ。怯えてるだけ。
誰かのたいしたことじゃないことに私は締めつけられたり縛られたりしている。
越えられない壁はある。壁づたいに歩くことをもう知っている。


心を平たくする方法だって知っている。
瞳から光をなくす。
そしてこっそり自分を破壊する。
飛び散った破片は掃いて捨てたっていいし集めて灯を灯す燃料にしたっていい。


溶け込んだかのように演じてもけして馴れ合わない慣れ合わない。
この違和感はなくならないし、なくなったときは自身を疑うべきだ。


どうでもいいことに煩わされることはどうしたってあるけれど私は今日もどうでもよくないことに全力でぶつかる。出し惜しみしない愛情をここに。

2012年3月13日火曜日

丸くなって眠る私が作るドーナツの穴に猫は潜り込んだ。











3月は出会いと別れの季節やっていう春のなかでも別れの期分な感じ。

ずっと長かった髪を生まれて初めてショートカットにして出た待ち焦がれていた卒業式とか。
新横浜から名古屋まで汗のような涙が止まらなかった新幹線とか。

なんかそんなんがほわーっと頭に浮かぶ。
まだまだストーブもコートもしまえへんし雪なんかもちらつく日々の合間のミルクティーのようなあたたかい陽射し。
嬉しくて兎柄のぺらんぺらんのワンピース着たわ。
その日の夜には寄席に行った。
生落語初体験。舞台は銭湯で。銭湯初体験。
めちゃめちゃ笑ってしもた。
そもそもゲラやし、どうも突拍子もないとこで笑いがちのようやし、でもそんなん憚らんでよかったし、うわ、なんやこれ、おもろい気持ちいい。空間がもうね、よかった。ただ足はめちゃめちゃ痺れた。
常々思うことやけれど、食べれてたらな、笑えれてたらな、なんとかなるねん。
体と心は繋がっているようで、なんやかんやで如実に表れてきていたこの体のそこここで、これはなかなか弱っているなと思うていたのだけれど、あの人やこの人やあれやこれやで私は勝手に生命力にしているから。
無理矢理でもなんでも今日も口角を上げる上がる。









太陽アレルギーやけど陽だまりは好き。
私が心底愛した男の人たちはみぃんなひなたのにおいがした。

2012年3月2日金曜日

ひな祭り前夜に徒然なるままに。




生きてきた年数、年齢という数字、に囚われることは好きじゃないけれど、意識はしてしまうもので、なんとなくこの年齢で死ぬ、という漠然とした未来を越えて生きてしまっている現実、相次ぐ現在、現在、現在、止まらぬ余生感に生温かいため息。それでも私はぬめぬめと生き、たしかに在る青白かったりオレンジだったりする灯を煽ぐ。抱きしめたい、と思い、抱きしめられるものは抱きしめ、抱きしめられぬものはせめてと吸い込んだり、ほぉっと「幸せだ」とつぶやいてみたりする。


私はまだ母親という役割を担ったことがなく、自分に母性本能というものが著しく欠落しているのではないかと思うほどにそれを望んだこともない。
ほしいとかほしくないとかそういうものではないと思うのだよ、懐妊する、それを含め母親という役割を担うということは。なんとなくなんとなくだけれど。


ひな祭りという日。
母と呼ばれたことのない私は、私の母という存在の娘という役割をうまく担えてこなかったことに苦しくなる。事実は、記憶は、消えないし消すつもりもないからそれはこれからも。
ひとりの人間が、女が、社会と契約して生きてゆくにはさまざまな役割を演ずることが必要とされ、私はめいっぱい八方美人に生きてきたし、これからもそうするだろうと思うのだけれど、どこかの誰かが喜ぶ時、どこかの誰かは泣くことはどうしようもないことなのかと途方に暮れる。でもそういうものなのだろうと。だからこそ幾度も幾度も選択を繰り返し生きてゆくのものなのだろうと。



お店にはお雛様がいっぱい。





母のお雛さま。
何十年ぶりかに日の目を見ました。




伊賀くみひものお雛様。




鮮やか。

あたしに視力がある限り、いや視力がなくなってもかもしれない、なくなったことがないけれど目を瞑ったことはある、体力、気分、欲望の満たされ具合、昨日見た映画、今流れている音楽その他あらゆるもので形成された日々変化するあたしのフィルターを通してこのセカイを眺める。見つめる。

それだけじゃつまらないから、あたし、そういうところは貪欲だから、あなたが見ているセカイ、頭の中で考えているそれこれを体現できたらと思うのよ。利用してくれればと思うのよ。

誰かの衝動になれることはすごくすごく幸福なことだと思うのよ。