2012年3月2日金曜日

ひな祭り前夜に徒然なるままに。




生きてきた年数、年齢という数字、に囚われることは好きじゃないけれど、意識はしてしまうもので、なんとなくこの年齢で死ぬ、という漠然とした未来を越えて生きてしまっている現実、相次ぐ現在、現在、現在、止まらぬ余生感に生温かいため息。それでも私はぬめぬめと生き、たしかに在る青白かったりオレンジだったりする灯を煽ぐ。抱きしめたい、と思い、抱きしめられるものは抱きしめ、抱きしめられぬものはせめてと吸い込んだり、ほぉっと「幸せだ」とつぶやいてみたりする。


私はまだ母親という役割を担ったことがなく、自分に母性本能というものが著しく欠落しているのではないかと思うほどにそれを望んだこともない。
ほしいとかほしくないとかそういうものではないと思うのだよ、懐妊する、それを含め母親という役割を担うということは。なんとなくなんとなくだけれど。


ひな祭りという日。
母と呼ばれたことのない私は、私の母という存在の娘という役割をうまく担えてこなかったことに苦しくなる。事実は、記憶は、消えないし消すつもりもないからそれはこれからも。
ひとりの人間が、女が、社会と契約して生きてゆくにはさまざまな役割を演ずることが必要とされ、私はめいっぱい八方美人に生きてきたし、これからもそうするだろうと思うのだけれど、どこかの誰かが喜ぶ時、どこかの誰かは泣くことはどうしようもないことなのかと途方に暮れる。でもそういうものなのだろうと。だからこそ幾度も幾度も選択を繰り返し生きてゆくのものなのだろうと。



お店にはお雛様がいっぱい。





母のお雛さま。
何十年ぶりかに日の目を見ました。




伊賀くみひものお雛様。




鮮やか。

あたしに視力がある限り、いや視力がなくなってもかもしれない、なくなったことがないけれど目を瞑ったことはある、体力、気分、欲望の満たされ具合、昨日見た映画、今流れている音楽その他あらゆるもので形成された日々変化するあたしのフィルターを通してこのセカイを眺める。見つめる。

それだけじゃつまらないから、あたし、そういうところは貪欲だから、あなたが見ているセカイ、頭の中で考えているそれこれを体現できたらと思うのよ。利用してくれればと思うのよ。

誰かの衝動になれることはすごくすごく幸福なことだと思うのよ。









1 件のコメント:

  1. たしかに、徒然やな~!!
    菜の花が生けられいて、春が近いことを感じさせる。

    最後の2行目は、思いやりなのかもしれないが、利用してくれればというのは、なんか違うだろうと思ってしまう。
    まあ、ほぉっと「幸せだ」とつぶやけてるんだから、いいな!!
    流れてた音楽はなんだったんだろうか?

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