2011年5月31日火曜日

映画見たメモ。





最近見たもの。



是枝裕和監督『空気人形』


生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ・・・・
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない


吉野弘の『生きる』の一節が朗読される。
あたしの好きな詩だ。


「お前の代わりなんていくらでもいるんだよ」というよく聞く台詞。
みんな何かの誰かの代用品。
別に代わりでいいんだ。そこにいられるのならば。
少なくともその瞬間は必要とされるんでしょ。ここにいてもいいんでしょ。


鬱々とした人たちは満たされないものを満たすための、少なくとも満たしたように思うためのものを探している。
それは健康的ではないけれど傷つくだけだとわかっていても止められない衝動。
とりあえず今、酸素を吸わなければ死んでしまうじゃない。


それでも満たす者に自分がなっているときもきっとあるはず。
あなたがいてくれてよかったって、想ってくれる人はきっといるはず。
それはけして直接的なものだけじゃない。
あなたの労働の結果かもしれない。
あなたの何気ない言動の結果かもしれない。
そういうものはめぐりものなんだと思うから。


ぺ・ドゥナの人形感(けしてロボットではなく)がたまらなく愛おしい。




園子温監督『紀子の食卓』


アナログ人間だと自覚している私でも、インターネットを利用しない日が皆無に近い状態になってしまっている。
虚構と現実を行き来することがすでに日常になってしまっていて、そうじゃない人たち(たとえば私の母や祖母)と会話する時、その境がもう曖昧になってしまっていることに恐怖感すら感じる。
疎い女子中学生だった私はそんなものないセカイで生きていたのに。
SNSのユーザーは、ネット上で自己の理想の姿を演じていると聞いたことがある(私はそのへん無防備なのだろう)。
しかし、それは現実のセカイで誰の理想かわからぬ教えられてきた理想を形成する一つの駒として精一杯演じることととても似ている。
演じきることができなければ、離脱するしかないのだ。その役割を放棄することしかないのだ。
誰の望んだ幸せ、その幸福感を私は感じられないのだけれど、幸せとはこういうものというそれがあるのだからそう思わなきゃいけない、そう思えない私はおかしい、まともじゃない、爆発したところで引き戻される現実。また駒となるか?なるだろう。そうするしかないんだよ。生きてくってことは。嫌なら捨てろ捨てろ。



深夜の園子温はヤバい。
高鳴る。

2 件のコメント:

  1. どちらも見ていないが、この作品が表現したかったことをズバリ言い当てているのだろうと思わせる表現力だ。

    いろいろな想いがあるし、いろいろ書きたいと思ったのだが、結局、まとまらなかった。

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  2. >PC_OTAさんへ


    どちらもいい映画でした。
    二人とも好きな監督。
    あたしとしては登場人物に自分を重ね合わせて見てしまう部分が多い作品たちでした。

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