2011年10月8日土曜日

生まれた季節がまた巡ってきて。





こんにちは、10月。
気付けば1週間。
お店を始めてから、週単位で時間を捉えることが増えたのですが1カ月の間に1週間はほぼ4回しかないのですね。
速くて長い日々を過ごしております。


その間にひとつ大人になったりしていました。
えぇ、わかってます。
とっくの前からあたしは大人です。石投げないで。
受け止めてはいますがなんかこんなに生きちゃってるのにこんなですいませんみたいな気持ちです。







ただ、おめでとうと言ってもらえるのは照れながらもうれしく、受動態で生まれてきた我が身だけれども生まれて来てくれてありがとう生きていてくれてありがとうなどと言われるといや生かされているんですよ卑しくもと思うのです。
そして同じように大切な人にあたしは同じ思いを抱くのです。ああこういうことなのだな、と。

たぶん人はその時その時に必要、というとなんだかすごく利己的だけれど、出会うべく人に出会っているのだと思います。
出会いは気付き。
気付きのセンサーは電源をオンにしていなければいけないし、その時の自分が、相手のセンサーが反応してくれる状態でなければ出会えません。
本や音楽や映画は一方的でいいけれども、対人間はそうはいかない。
呼応し合うことなどそうそうあるものじゃなくて、気恥かしいけれどそういうことを奇跡と呼ぶのかもしれません。
奇跡は光。縛っておくことができるものじゃない。失わないでいることもまた奇跡。





あたしは今、とてもシンプルで真っ直ぐな情熱を胸に生きています。
まいのまは、真っ直ぐのまだってお父さん言ってた。

幸せはなるものでもしてもらうものでもなくて感じるもの。
あたしは勝手に感じてやろうと思うのです。
どこかで誰かが泣いていると思えばその幸福感は途端にしぼむ、そういう類のものだけれど、それでも嗚呼ごめんなさい、あたしは幸せを感じてしまうのですと鳴くでしょう。
永遠に続くものではないとわかっているからこそ私は抱き締め、たしかにここにあることを確かめるのでしょう。
「弱虫は幸福をさえおそれるもの」だと太宰治は書いています。
あたしは本当に弱虫です。
勝手に感じてやろうだなんて乱暴に言っていますが本当は怖い。
失うときの事を考え怯えているのです。
たとえば、会える日をすごく心待ちにしていて指折り数えてああ明日会える会える、でも夜にはバイバイしてまた別々のお家に帰り、別々のおふとんで眠るのだな、哀しいなぁさみしいなぁという感覚。
だからと言って会わないのは愚かなことです。
だからと言って抱き締めないのは愚かなことです。
どこまでいっても誰といても孤独です。液体となって混ざり合ってしまいたいと願うことあっても別々の個体であることは変わらぬのです。だからこそです。

思っていたより生きてしまいましたがそれでも人生は短い。
あたしはその短き人生に夢を見る。
もう夢など見るかと思っていたのにね。お前のようなものがそんなものを見るからろくなことにならないのだと思っていたのにね。ごめんなさい。
あまりに素直にむくむくと沸き上がるこのこれはどうしようもないのです。
そして、あたしはまたそれにひたむきになってしまうのでしょう。真っ直ぐのま。
そういうものに逆らって押し込めて見ないふりして生きる空しさをあたしは知っていて、もう二度とそんなふうになりたくはなくて、むしろそういうものに生かされているのです。
そんな灯を持っているあたしは幸せよ。ありがとう。ありがとうね。

死なないようにでもなんでも今まで生きてきました。
これからも生きてゆきます。
どうしてもどうしても生きていてほしい人がこの世界にはいる。
明るい日と書いて、明日。
歩いてゆくよ。
抱き締めてゆくよ。

1 件のコメント:

  1. うん、気付きセンサーが、お互いにシンクロして反応しないと、出会えないよね。「無茶はするけど、無理はしない」まいさんを覚えていて、ツイッターでのやり取りが再開できたんだよなぁ。そのときに、奇跡的だと思ったし、”縁”があったんだよなって。
    そして、まいさんとのやり取りするようになって、Jazzや音楽の話ができて嬉しいし、おれも、ありがとうと言いたい。
    きっと、無神経な発言でむかつかせるかもしれないけど、悪気はないし、この縁を大切にしたいと思っている。今後もよろしく。

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