2011年3月4日金曜日
『冷たい熱帯魚』を見た。
2日ぶりに家を出て、2日ぶりに化粧をして、昨日、『冷たい熱帯魚』を見てきた。
予告を見て、ヤバいと震えた。
これは戦闘服で行かねばならぬと起立し、豹柄のワンピースを纏う。
怪物を見ました。
いまだにフラッシュバックが止まりません。
あたいはこういう映画が見たかったんだよ!!!
と叫びました。
ツレに「あんたはそういう女だ」とにやっとされました。
ハッピーエンドが苦手な私は、映画にかりそめの感動とか明日への希望とか求めていない。
ちょっと、もうかわいい女子じゃないからそんな慰めはどうとらえていいのかわからず辟易してしまう。
だが、この作品は私に、「そう、私は悔しいんだよ。悔しくて悔しくてたまらんのだよ。生きることを選んじまったんだよ。くそ、生きてやるんだよ。くそっ」とあまり美しくない生命力を腹の底から沸き立たせさせた。
激しく殴るシーンや死体を切り刻むシーンを見ているのに、にやにやしている私は人としてダメなところに堕ちてしまっているのかと思い、周りを見渡すと笑っている人は結構いた。
平日の昼間という時間からか、還暦を越えていると思しき男性が多かったのだが、それだけの人生経験を積んだ人々でもそうなのだから、私はたぶん大丈夫だ。
そういうものも極限までいくと結局人は笑うのだ。
怒りも悲しみも極限までいくと笑いになるのだ。
怪物を見たというのは、“透明にする”殺人を繰り返す村田を演じるでんでん氏。
言っていることもやっていることも恐ろしくて非人道的なのだが、返す言葉を探す間を与えぬほどに論じる彼の持論には、彼なりの筋が通っていて感心してしまう。
それにしてもすごかった。
家に帰るとでんでんがいる気がして油断できなかった。
とりあえず、女であることをフル活用しておっぱいを差し出すことくらいはしようと覚悟して帰った。
『絶望した側が、戦いに勝つことがよくある』というヴォルテールの言葉があるように一度、本当の絶望に陥るというのはなかなか大変なことでそこから這い上がってきた人間には特有の迫力が顔に出てくる。
罪悪感というのは、人を臆病に堕落させ、挑むことに言い訳を作るようになる。
そんなものを持っていて救われたいと願うのはおかしなことだ。
とにもかくにもいい映画だった。
あんなに残虐的なシーンをたくさん見たのに気分は高揚し、爽快さすら感じた。
ただ、私の周りの真っ当な女子には勧めないし、初デートで行くなんてことはやめたほうがいいと思う。
少しいいと思っていたとしても、本当にこの人と交際してもいいものかと考えさせる時間を与えてしまうだろう。
それはまだいい方でその場でふられることも予測できる。
私なら、キュンポイントになるのだが。
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